「忘却の果て」

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 僕は一人の女性と知り合った。彼女とは会社の同僚として、いっしょに働いていた。とはいっても、彼女は隣りの課にいたのだが、なぜかよく目が合った。気が付くと、彼女は僕をずっとと言うより、ぼうっと見ていた。僕はそれがとても奇妙に感じられた。彼女の視線が、僕を意識しているようには感じられなかったのだ。じゃぁ、なぜ僕ばかりを見つめているのだろうと単純に感じていた。僕は一度でいいから彼女と話がしてみたかった。
 彼女は特別目立つような人でもなかった。これと言って悪い評判も聞かない。傍目には、仕事もそこそこ出来そうな感じだし、何よりもあの笑顔が素敵だった。別に愛想笑いをするわけでもない。ただなんというか、ほのぼのとしているといったらよいのか、おっとりしているといったらよいのか、当り障りなく振舞っていて、いやな事があっても動じないような、そういう感覚が鈍っているようなそんな感じなのだ。たまに失敗したり、物忘れをするようだったが、上司はおろか同僚にも悪い印象を持たれていない様だった。随分と得な性格だなぁと思ったりもしたが、どうもそんな単純なものではないような気がする。
 僕は一大決心をした。彼女に話し掛けてみようと思う。とは言っても、早々チャンスは廻ってくるものではなかった。この数日間、いつ話し掛けようかとその事ばかり考えていた。その為か、僕まで失敗や物忘れが多くなってきた。しかもぼうっとするようにもなり、この間なんか、彼女と二人でぼうっと見つめ合ってしまうほどだ。しかも何の違和感もなく、ただ見つめていた。何せ二人とも、相手を見つめているという意識が無いものだから、誰かに声でも掛けられない限り、永遠に見つめ合っているのではないかという感じだった。しかし、彼女の『ぼうっ』と、僕の『ぼうっ』とでは明らかに違いがあるように感じる。何処がどのようにと聞かれると困るところだが、何と言うか僕が思いをめぐらせているのに対し、彼女は削除しているとでも言ったら良いのだろうか。それはとても自然なようでいて、どことなくぎこちなさを感じた。
 チャンスが向こうから一方的にやってきた。チャンスというものは、ちゃんとお膳立てされているようで、僕が一生懸命がんばっても手に入れられなかった事が、意図も簡単に、しかも一方的に僕の方に準備が出来ていなくても来てしまうものらしい。僕は昼休みにコーヒーを呑もうと、自動販売機の前で出来上がるのを待っていた。僕はこういうものを待っているのが苦手で、出来上がるとさっさとコーヒーを取り出して、きびすを返すように振り返った。僕はそのイライラの性か、すぐ後ろにあの彼女がいる事に気付かないでいた。そして当然の如く、彼女とぶつかってしまった。僕の持っていたコーヒーは、彼女の制服の胸の辺りに少しかかった程度で、残りは床にこぼれた。僕はとっさに彼女にかかったコーヒーを拭きにかかろうとしたが、場所が場所だったもので、伸ばしかけた手をそのまま床に向けた。持っていたものが自前のハンカチだっただけにちょっと後悔したが、それよりもこんな行動を取ってしまって、彼女は怒っていないだろうかという事の方が心配だった。
 「大丈夫でしたか。もし着替えがあるなら早く着替えてください。クリーニング代は僕が支払いますから」僕は床を見ていた顔をそうっと彼女へ向けた。そこには恐れていた様がそのまま再現されたかのようにあった。彼女はむすっとしていて、僕をぎぃっと見つめている。傍から見れば、そんなにすごい表情をしているわけではないだろうが、この状態での僕は、まるで蛇にでも睨まれているようで、あぶら汗をかいたカエルそのものだった。
 「当たり前でしょ。後で請求書出すからきちんと支払ってよ」彼女は少しきつい口調で静かに言った。僕にはそんな彼女が少し別人に見えてしまったのは気のせいだったのだろうか、少し戸惑ってしまって、ええという言葉だけが口に出た。彼女は僕の返事を待つ様子もなく、きびすを返して立ち去った。

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