「Blind world〜終わることのない悲しみ」

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第三話 愛美〜前触れ

 愛美は昼間だというのに、カーテンを締め切って部屋の中に一人でいた。何もせず、ただキッチンにあるテーブルの前に座っていた。目の前には、もう表面が乾いてしまったカルボナーラが置いてある。彼女の好物とはいえ、今の彼女にはそれを食べようという欲求は湧いてこなかった。彼女はただ目の前にあるものを見つめ、アレが起るのを今か今かと身構えているだけだった。『アレ』・・それは多重人格とは違う。彼女とは性格も容姿もまったく違う者。多分、『変身』という言葉が適切かもしれない。もちろん彼女自身『アレ』がどのような形態をしており、何をしているのかなど知る余地もなかった。彼女と『アレ』が同一だと知る者はいないだろう。一部の人を除いては・・そう、あの街で擦れ違った男を除いては・・・。

 (トゥルルル トゥルルル トゥルルル・・・)
 「ただいま留守にしております。ピーと言う発信音の後にメッセージをお入れください」
 (ピー・・・)
 「愛美、お母さんです。さっき電話あったみたいだけどあなたでしょ・・・・・」私は慌てて電話のほうへ走り出す。そして乱暴に受話器をとった。
 「あっお母さん。あたし!」
 「なんだ、いたの。てっきり留守なのかと思ったわ。それよりどうしたの?そんなに息切らして」わたしの心臓はまだバクバクしていた。それは走ったからではなく、色々なものが複雑にからみ合った、何とも例えようのない不安からだった。
 「ごめん。今帰ってきたとこだったから・・」
 「そうなの。なんだか悪いことしちゃったみたいね」お母さんの声のトーンがすこし下がった。
 「うんん、そんな事ないよ。それよりお父さんは元気?」わたしは別にお父さんの事はどうでも・・・。
 「ええ、元気よ」お母さんはわたしが電話を掛けてきたことがうれしいのだろう。声が元の調子にもどっていた。
 「・・そう。・・で、正美は?」わたしは『普通』の会話に流されるように聞く。
 「正美も元気よ。・・・お母さんの事は聞いてくれないのかしら?」お母さんは少しおどけたように聞いてきた。たぶんお母さんは、私のしずんだ声を聞いて気を使ってくれているのだろう。
 「・・ごめん。お母さんも元気?」わたしはそんなお母さんに少し気を使いながら聞いた。
 「・・うふ?・ええ元気よ」お母さんは少しおどけてそう言った。まずい。このままだとお母さんのペースにはまってしまい、何でもベラベラしゃべってしまいそうだ。本当はそうしたいんだけど・・・。
 「・・それより、何かお母さんに話したいことがあるんじゃないの?」やっぱり来た。俗にいう『本題』というやつだ。どうしよう。まだ心の準備がぜんぜんできていない。この事をしゃべった方がいいのかどうかすらまだ決まっていないし・・・。あぁ、どうしよう。どうしたらいいの!わたしは頭をクシャクシャにしたい思いでいっぱいになった。
 「・・・ううん、べつに特別な話があるわけじゃないんだけど、ただ・・・」わたしの胸の奥からなんとも言えない思いが、抑えられないくらい込み上げてきて、思わず震える唇を手で抑えた。
 「・・ただ?」お母さんの声がとても優しく響いてくる。
 「・・・ただ、お母さんの声を聞きたかっただけ・・ごめんなさい」わたしはやっとの思いで答えた。
 「・・そう、いいのよ。わかってるわ。またお母さんの声が聞きたくなったらいつでも電話してね」お母さんは私にそう言ってくれた。
 「じゃぁ、体には気をつけてね」
 「・・・うん、わかった」
 (ツーツーツー・・・)

 愛美は受話器を耳に当てたまま、その場に立ち尽くしていた。「お母さん・・わたしね・・本当は・・本当は・・・・・」そんな事を呟いている愛美の頬には、一筋の雫が伝っていた。その雫は何処となく青く光っているようにも見えた。それはとても悲しくて、とても切ない涙だった。

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